日大監督の騒動

8年前の写真だが、とても気にいっている。

何故なら、あのとき、ようやくある目標に達成したと思いがあるからだ。
この組織でトッブを目指すと、大学のころから
そして採用されたときからも目標はぶれなかった。
ただそれだけだった。それに相応しい行動をひらのときから
心がけたものだ。
能力も体格もずば抜けていないことは、自分自信がよく認識している。
ならば、指揮官としての能力を高める事だ。
ひらと同じレベルで力の取っ組み合いを自慢する土俵での勝負でなく、裁判所、弁護人に負けない法律知識、それに組織の士気の高揚を最大限に高める
能力が求められる。
うわべだけの人格と能力は直ぐに部下に見破られる。
それが組織のトッブに求められる要件だ。部下の不始末は、監督者の責任と腹を括る気持ちで毎日勤務に励んだものだ。
昨今、日大のアメリカフットボール監督者の弁解は最悪だ。
常日頃、選手を育成し指導とするというよりは、言葉の脅しに頼った安易な方法にいったという気がする。
自己の利益しかないから、選手のせいにしてしまう。
僕は中学生の9人制のバレーボールの時、後衛の隅っこでひたすらボール拾いに甘んじていた時代があり、そのことにより人生で貴重な経験をさせてもらった。
輝かしいアタッカーの影には、我々の支えがあるということを全く知らない者もいたということだ。
最近では、甲子園の物語でも生選手による補欠に対する思いを馳せるという美しい物語が語られるようになってきたものだ。
指導者がその事を悟らせることをしなければ、子供の頭ではさすがに思いはよぎらないと思うのである。
さて、この年になると同期会の集まりがもようされる。
40~50年の歳月が過ぎ、幼い頃の話に盛り上がることもよいが、あの当時のレベルでとうとうとはなしをされる方がよくいるのには、本当にへきへきするものだ。
人は歳月と共に成長するし、なかには停滞のままもいるかもしれないが、中学生の頃と同じ気分でする会話には、疲れる。
そういう複雑な気持ちで、または、この事に吹っ切れたというこの写真の姿が、僕には新鮮に映る。